君と奏でるコルネット



第四楽章 甘い誘惑



「へぇ〜成程ね。だからあんなことを言ったんだ」
 吹奏楽部の体験入部終了後、帰り道での出来事。
 俺は石畳が敷きつめられた歩道に足跡を刻みながら、奏ちゃんへ一目惚れした経緯を漏れなく裕二に打ち明けた。本当は暴露したくなかったけど、もうバレてることだろうし仕方がない。
「と、とにかくそういうことだから、俺をフォローしてくれよ!」
「わかったけど……もしかして音弥は本気で吹奏楽部に入るつもりなの?」
「そんなわけないだろ! たかが女一人のために……」
 そう、たかが女性一人のために。野球と彼女の二つを天秤にかけたら間違いなく野球が勝る。い、いや、やっぱり奏ちゃんは魅力的だし……
 そんな激しい葛藤に苦しんでいる俺に向け、「そんなこと言う割には、話しかけられて凄く喜んでだよね」と、タイミングよく痛い点を突いてくる我が親友。
「……う、うるさいっ! お、俺は野球部に入るってすでに心に誓ってるんだよ! だから明日は野球部の体験入部に行く!」
「それならいいんだけど。今度は誘惑に負けないようにね」
 最後に一騒動に巻き込まれてしまった裕二が注意を促して、今回の会話は締めくくられた。

 翌日の放課後。
「よし、かえっかなー! 市野崎、体験入部頑張れよー!」
 前席で腰を構える桶川は、毎日絶賛開催中の体験入部に興味を示すことなく帰っていく。どうやらこいつは部活に所属するつもりは更々なく、放課後に暇人と化す帰宅部ルート一直線らしい。
 俺は個性を伸ばすためにも、なにかしら部活へと入った方がいいと思うんだが。まぁ、こんな名字キャラの事情なんかどうでもいいか。
 よし、今日こそ白銀学院野球部の体験入部に参加してやる。あの土埃が舞うグラウンドに華やかで輝かしい未来が待っているんだ。愛しの奏ちゃんがいるからって絶対吹奏楽部の体験入部なんかに行かないぞ。
 堅い決意を胸に、俺はスクールバッグを肩にかけて教室を飛び出した。向かう先は……もちろん校舎外のグラウンドだ。
「あー市野崎君。こんにちはー」
 渡り廊下に出た直後、ふいに鼓膜へ届いてきた女性の甘声。その声の主を瞬時で把握した俺に、至福の時間が訪れる。
 そう、前日に晴れて友達?へと昇格した女の子──三嶋奏ちゃんと偶然にも出くわしたのだ。
 とりあえず社交辞令である挨拶を交わす。
「あ、み、三嶋。こんにちは」
「今日はどこの体験入部に行くのー? やっぱり軽音部?」
 本日、初の会話は体験入部の話題から。
 そういえば彼女にギター完璧に弾けるとか大嘘を吐いたままだった。う……今になってとてつもない罪悪感に襲われるな。
「そ、それもいいけどーやっぱり吹奏楽部に行こうかなー」
 心に罪悪感が生まれてもなお、俺の口はしょうもない虚言を吐き出し続ける。ごめんなさい、ごめんなさい。
「そっか、じゃあ一緒に行こう。私も行くからさ!」
 対して奏ちゃんは罪悪感たっぷりの嘘に気付く素振りも見せずに、彼女最大限の魅力である破顔を振りまいてくれた。そして俺のブレザーの右裾を控えめに引き、ちょこちょこと西校舎に向かって歩き出す。
 おぉ……この犯罪者並みの最低野郎に、世界を平和へ導きそうな優しい微笑みを拝ませてくれるなんて……やはりあなたは俺の天使だ。あぁ、最高に幸せ──

「……で、結局昨日も吹奏楽部に行ったってわけなんだね」
「そうだよ……くそっ、なぜこんなことに……」
 あれから数日。俺は放課後に移った教室で、裕二と駄弁りながら坊主頭をボリボリとかきむしっている。
思い返せばここ最近、連日のように吹奏楽部の体験入部へと参加していて、学園が誇る強豪野球部の体験入部には一度たりとも参加できていない。野球が好きで音楽が嫌いなのに、この逆転した状況はどう考えてもおかしい。
 そもそも俺は毎日放課後になったら、野球部の練習が繰り広げられているグラウンドへ向かおうとしているのだが──
「なぜ俺が行く先々に奏ちゃんが現れるんだよ……」
 偶然なのか必然なのか校舎のどこかしらで、我が愛しの女生徒である三嶋奏ちゃんとばったり出くわしてしまうのだ。その後の展開は、皆さんのお察しの通り。
 奏ちゃんと一緒に体験入部に参加できて嬉しくないといえば嘘になるが、毎度この状況に飲み込まれてしまってはプロ野球選手という夢を叶えることができずに、将来設計が崩れてしまう。
「音弥は誘惑に負けすぎだって。このままじゃ本当に入部する羽目になっちゃうよ?」
 裕二が考えたくもない恐ろしい最悪の展開を口にする。やばい、それだけはどうしても避けたい。
「まぁ、彼女に会ったらテキトーな言い訳でもして逃げればいいよ」
「でもなぁ……正直、切り抜けられる自信がない……」
 もしも地上に舞い降りた天使──奏ちゃんとまた出くわしたとして、果たして俺はこれまでの反省を生かして彼女を振り切ることができるのだろうか。
 いや、絶対に無理だな。またもやバッドエンド一直線の行動選択肢を選んでしてしまいそうだ。甘い言葉に誘われてふらふらと彼女についていってしまったりしてね。まるであの娘は羽虫(俺)にとっての街灯みたいな存在……いや、たとえが悪いな、蝶々(俺)にとっての花蜜みたいな存在だな。
 さて、本当にどうしたものか。困ったな。
「…………んお、そうだ! 入部届けを今の内に提出してきてしまえばいいんだ!」
 そこで俺は気付く。野球部入部の旨を記した入部届さえ提出してしまえば、後は吹奏楽部の体験入部に行こうが何をしようが関係ないということに。成績不振の原因である我が脳みそにしては、意外にいい案が浮かんだな。
「あ、それいいんじゃないかな? それなら入部しなくて済むしね」
 裕二も俺の練り出した案に賛同の意を示す。
 よし、そうと決まれば作戦実行あるのみ。俺は机の中から二、三日前に配られた入部届けを素早く抜き取って、プロの書道家のごとくシャープペンシルを深く握りしめる。
 一筆入魂!
 シャープペンシルの芯が白い用紙に触れようとした、その時──
「あ、市野崎君みっけー! ねぇねぇ、今日も一緒に吹奏楽部の体験入部行こうよー!」
 教室を覗き込んでくる女子生徒。俺の知り合いで吹奏楽部の体験入部参加を促してくる女性は、今のところ一人しか該当者はいない。
 最悪のタイミング。彼女──三嶋奏ちゃんに会えたのはとても嬉しいことだが、正直今は会いたくなかった。
「みっ、三嶋!」
「あ、それ入部届けだよね。あれ? まだ何も書いてないんだ。それじゃあ、私が書いてあげるよ!」
 入室してきた奏ちゃんは空席状態にある隣の席へと腰をおろして、スクールバックから可愛らしく細工された筆箱を取りだす。そして筆箱からピンクの油性ペンを選んだかと思えば、俺の机上から入部届けをかっさらっていた。
「何部って書けばいい〜? 吹奏楽部でいいよね?」
 ペンを握りしめる奏ちゃんからは期待に満ちあふれた漆黒の瞳が向けられる。やはりこの娘は俺が吹奏楽部へと入部することを望んでいるらしい。確かにここまで魅力的で可愛らしい表情を振りまかれると、吹奏楽部に入ってみたくなってしまう。毎日、楽しいんだろうなぁ。
 いや、駄目だ。ここで甘い誘惑に負けてしまってはいけない。俺はかねてから決めていた通り、この白銀高校の強豪野球部に入部しなければいけないんだ。そして、部活を続けていくうちに本領を発揮して、一年でエースに登りつめて──
「……やっぱり軽音部に行っちゃうのか……せっかく仲良くなれたのにな」
 そう寂しげに呟いた彼女は、漆黒の瞳を潤ませながら上目づかいでこちらの様子を窺っていた。
 天使様、三嶋奏ちゃんによる破壊力抜群の仕草。やばい、抱きしめたくなるほど超可愛い。
 そして、無意識のまま俺の口元が勝手に動き──
「ち、違うよ。吹奏楽部に入るんだ、吹奏楽部!」
 し、しまった!
「ほ、本当に! やった、じゃあこれから毎日一緒に練習できるね!」
 途端、奏ちゃんはぱぁっと無邪気な笑顔を浮かべて、いそいそと入部届けの記入欄に『吹奏楽部』と書きこんでしまう。
 またやってしまった。いや、今回はまたでは済まされない。徐々に冷静さを取り戻した俺は、現在の陥ってしまった状況を理解する。
 あの音楽が嫌いで嫌いでたまらない市野崎音弥という少年が、奏ちゃんという可愛らしい女生徒の甘い誘惑に負けて、音楽の絶えない吹奏楽部へと入部することになったのだ。大嫌いな分野に予備知識も何もないまま無防備で特攻するあたり、俺は後先を考えていないただの大馬鹿ものだ。
 しかも入部届けに記入する際に、奏ちゃんがピンクの油性ペンを使ってしまったので修正は完全に不可能。ピンク色に染まった「吹奏楽部」「いちのざきおとや」という奏ちゃん筆の丸っこい文字が今はすごく腹立たしい。
「……もう、どうにでもなれだ……」
 もはやどうしようもなくなった俺は、完全に自暴自棄になっていた。



2011年3月6日 公開



     



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