キオク

第二十八話 崩れゆく信頼



 九月に突入した事実を忘れさせるほど、身体に纏わりつく夏の蒸し暑さに嫌気が差す平日の午後。

 僕は現在、自室のベッドで白を基調とした天井を見上げながら無表情で寝そべっている。

 平日の午後にもかかわらず一学生が部屋に居座る状況としては、不登校に陥っていて学校に通えな

い、学校をサボりたいがために仮病を使ったなどの特殊な事例ばかりであり、僕がこうして部屋に籠って

いるのには上記以外の確かな理由があった。

 それは時を遡ること三日前の事、僕が千堂に暴力行為を行ったあの事件が関係している。千堂への暴

力の件についてやはり僕自身に問題性があると先生方より指摘を受けてしまい、処罰は避けられない状

況に追い込まれてしまったのだ。そして最終的に生徒指導部より言い渡された処罰は自宅謹慎一週間。

 しかしながら僕は千堂が変な策略を立てたことを根に持っているのでまったくもって反省をしていない。

逆に生徒指導部から下されたペナルティに不快感を覚えるほどだ。勿論、彼女でいる香奈ちゃんには迷

惑をかけて凄く申し訳ないとは思っているけれども。



 引き籠りのように部屋から一歩も外を出ないまま二時間は経っただろうか。睡魔が一寸刻みに襲い始

めてきた頃、テーブルに鎮座した携帯電話が電子音特有の軽快なメロディを奏でながら突然震えだした。

仰向け状態で横目を這わせると、一定のリズムで青色に点滅するサブディスプレイには「西原香奈」の

電子文字が。

 僕は気だるさを纏った身体をベッドから起こし、テーブル上で断続的に震える携帯を開く。そしてやっと

の思いで通話を開始すると、スピーカーからは聞き慣れた彼女の甘ったるい声が響いてきた。

「卓真君……あの……大丈夫?」

「うん……大丈夫」

「どうして……千堂君にあんなことをしたの」

 彼女の声色からいつの間にか素っ気なさが消え失せていたが、その代わり既に伝達済みであった千

堂への暴力事件について触れてくる。僕はその問いに対して、加害者の単なる言い訳にしか聞こえない

かもしれないが胸に秘めた正直な気持ちを隠蔽することもなく吐いた。

「それは……香奈ちゃんをあいつの悪事から守るためだよ」

 多分、僕を慕ってくれている香奈ちゃんなら「私の事をそこまで想ってくれて……卓真君は優しいね」み

たいな心を楽園へ誘い込むような幸せ溢れる言葉を掛けてくれるであろう。

 しかし、彼女の返答は意外なものだった。

「千堂君は……悪い人じゃない」

 千堂君は悪い人じゃない。

 予想の大分斜め上を行く香奈ちゃんの発言に僕は眉をひそめた。

 信じられないことに僕のパートナーであり味方であるはずの西原香奈が、何故か憎むべき敵である千

堂宗一郎を庇って裏で行っている悪事を否定している。

 まさか糞千堂からまた噂レベルの虚言を囁かれ、洗脳されてしまったのだろうか。それとも何か人様に

言えないような弱みでも握られてしまったのか。兎に角、彼女は千堂の心の裏を全然分かっていない。記

憶喪失に付け込んで自分の彼女にすべく香奈ちゃんを上手く騙そうとしている千堂が善人なわけがない

んだ。

「だから騙されてるんだって。あいつは俺たちの関係を壊そうとする悪人だよ。この前だって香奈ちゃん自

身に不安を煽る言葉をかけてきたでしょ?」

 と、香奈ちゃんに再度理解を求めるものの──

「で、でも私は勝手にそう決めつけるのは良くないと思う……兎に角、卓真君が千堂君に暴力を振るった

のは確かなんだから反省してもらいたいの」

 彼女は僕の真摯な気持ちを受け止めるどころか、逆に僕に対して千堂に謝罪をするよう迫ってくる。さ

ぞかし電話の向こう側では哀調の帯びた形相を浮かべているであろう。

 この時、既に僕の傍には西原香奈という味方は存在していなかった。

 まさか僕の方が間違っているというのか? いや、違う。確かに暴力を振るったことは悪いかもしれな

いが、あの男は確実に僕ら二人の仲を引き裂こうとしていたじゃないか。僕に非はまったくない。

 千堂宗一郎の悪事を再確認した僕は、怒りに我を任せたまま右手を震わせて携帯電話を強く握りしめ

る。そして完全に千堂側へと付いた香奈ちゃんに向かって、山のように積もり積もった不満をぽつりぽつ

り漏らしていく。

「何で……何で香奈ちゃんはあいつの肩を持つんだよ……どう考えてもあいつの方が悪いのに……」 

「わ、私は自分自身の勝手な思い込みで人に迷惑をかけちゃいけないって言いたいの!」

「やっぱり香奈ちゃんは千堂の味方になっちゃったのか……幻滅したよ……」

「……そ、そうじゃないよ。だから私は──」

「もういいよ……」

 香奈ちゃんの千堂擁護発言にうんざりしはじめた僕は、彼女の話に耳を一切傾けることなく躊躇せず

にボタンをプッシュ。鼻にかかる女性の甘声が中途半端などころでブツ切れた。

 通話が切断された直後、煮え切れない想いと共に香奈ちゃんへ寄せていた熱い信頼が心中で右肩下

がりに急下降。そして最愛の彼女を略奪されたような最底辺の気分へと陥ってしまい、携帯を床に放り捨

て再度ベッドへと力なく倒れこんだ。

 仰向けのまま僕は右腕で自分の目元を隠して、儚げに呟く。

「香奈ちゃんの……馬鹿」

 本人に届くはずもない精一杯の悪口は、静寂を保つ室内の空気へと無情にも飲み込まれていった。



2009年12月6日 公開




          

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