キオク

第二十二話 初恋の人



 驚愕の事実。ちょっとだけ昔の記憶が戻った、と確かに香奈ちゃんは口にした。

 僕にとって、いや、僕だけじゃない、香奈ちゃんの友達や里奈さんにとって非常に嬉しいことである事に

は間違いない。

「ど、どういうこと?」

「子供の頃の話なんだけど……」

 彼女は俯いた顔を上げ、僕へと真摯な瞳を向ける。

「私の初恋の人の話」

 記憶喪失に陥る以前の香奈ちゃんから聞いたことがあるので、初恋の人の話を耳にするのは二度目と

なる。

 香奈ちゃんはバッグに吊るされたお守りの紐を解き始め、いそいそと中身を取り出した。逆さまにした

お守りの口から零れ落ちた物体は、太陽光を四方八方に乱反射させる玩具の宝石だった。

「これを見てね、何か頭に凄い衝撃が走ったの」

 話によると、先程香奈ちゃんが水着に着替えている際、春ちゃんから膨らんだお守りの中に何が入って

いるのかを指摘されたのだそうだ。勿論、何にでも首を突っ込みたがる性格の春ちゃんはお守りの中身

に興味津々で、香奈ちゃんからお守りを奪おうとする。反対に香奈ちゃんは奪われないように必死に抵抗

する。

 結果、二人が揉み合っているうちに、お守りの中身が飛び出してしまったらしい。

 その時、転げ落ちた玩具の宝石を目にして、脊髄から頭の先まで稲妻に打たれたような強い衝撃が身

体中に流れたという。同時に過去のちょっとした記憶が甦ってきたのだとか。

 以上の出来事を香奈ちゃんは、掌に鎮座した玩具の宝石を眺めながら説明した。

 僕にはその物体にはっきりとした見覚えがあった。間違いなく自分の部屋に紛れ込んでいたあの玩具

の宝石と、一緒の形状をしている。

「私がお母さんと逸れて泣いているときに、その人がこのお守りに入っていた二つの宝石をくれたの」

 と、香奈ちゃんは嬉しそうに満面な表情で語り続ける。

「その後も一緒に遊ぶようになって……えっと……あ、お、あ! 蒼き閃光っていう漫画も貸してもらった

事があって……」

 蒼き閃光。その漫画の名も最近どこかで目にした記憶がある。昨日、掃除をしている最中に本棚の裏

から発見した色褪せた漫画のタイトルだ。

「少し経ってから私、引っ越すことになってね。その時に二つあった宝石の片方を初恋の人に渡したんだ。

この宝石を見て、時々でもいいから私の事を思い出してねって。それ以降はその初恋の人とは会ってい

ないと思う……」

 直後、複雑な表情を浮かべている僕の姿に気付いてか、香奈ちゃんは言葉を制止した。

「あ、ご、ごめんね。初恋の人なんて卓真君には関係のない話だよね。私に思い出せるはここまで。最近

の……付き合ってた頃の記憶とかはまだ思い出せないの……」

 そんな発言をする香奈ちゃんを余所に、僕はある推測を立てていた。

 昔のアルバムに張り付けられていた写真には香奈ちゃんにそっくりの女の子が写っていた。更にトート

バッグに吊るされていたのは、今の香奈ちゃんが所持するものと全く同様のきらめきを放つお守り。極め

つけは、お守りの中に僕の部屋で眠っていたものとほぼ同質の宝石が入っていて、香奈ちゃんは二つあ

った宝石の片方を初恋の人に渡したとも告げていた。

 以上の事を踏まえると、僕は昔、香奈ちゃんと一度会っているのかもしれない。そして、その推測に則

れば香奈ちゃんの初恋の相手は……僕になるのか?

 目を閉じたまま、この完全なる自分勝手な推測を彼女に話すべきか、それとも話さぬべきか、僕は心底

迷っていた。

「た、卓真君? ど、どうしたの?」

 香奈ちゃんの不安が混じった発言に、ようやく我に返る。

 次の瞬間、顔を覗き込んでいる愛らしい相貌の女性が瞳の中に写り込んだ。更に二人が水着姿という

こともあって、肌と肌が密着し、少女の体温が皮膚を通して生々しく伝わってくる。

「えっ? う、うわ! ご、ごめんっ!」

 生殺しにされそうな二重コンポに圧倒され、咄嗟に身体と顔を離した。

 やっぱり香奈ちゃんの前じゃ、いつも落ちつかない。

「う、うん。で、でも、香奈ちゃんの記憶が少しでも戻って良かったよ」

「ありがとう」

 結局、僕が導き出した推測は心の奥底にしまっておくことにした。香奈ちゃんが混乱しない為にも、仕

方のない選択だ。

 でも……少々ばかし香奈ちゃんの顔が晴れやかになっている気がする。

「さてと……もうそろそろ交代の時間かな?」

「そうだね。それじゃあ、海の家に戻ろうか」

 また、接客の仕事を行うのは億劫ではあるが、皆が頑張っている以上逃げ出すわけにはいかないだろ

う。香奈ちゃんも多分、同じ気持ちだろうけどここはやり遂げないとね。

 こうして僕ら二人は、砂浜に足跡を刻みながら海の家へと歩を進めた。



 夕刻となりアルバイトも特に問題は起きず、無事に終了。

 帰り道での香奈ちゃんの顔は、僕の瞳にはとても満足そうに写っていた。

 記憶喪失少女の思い出作りの為に計画された小旅行であったが、本人が十分に満足してくれたような

ので、大成功したと胸を張って言えそうだ。

「どうしたの? にやけちゃったりして。香奈と何かあったの?」

 助手席に座する僕に質問を問いかけてくるのは、ハンドルを握りしめ車を運転させる香奈ちゃんのお姉

さん、里奈さんだ。

 いつの間にか僕の顔面は綻びを見せていたようだ。

「え、いや、香奈ちゃんがほんの少しだけ記憶が戻ったらしいので」

「え!? そ、そうなの! ほ、ほんとに!? ……よ、良かった」

 吃驚仰天の表情を見る限り、どうやら幼い日の記憶が戻った事実を里奈さんは知らなかったらしい。

 里奈さんは延々と伸びたアスファルトの道を見据えながら、引き続き口を動かす。

「でも、そんな大事なことを先に姉の私じゃなくて卓真君に話すなんてね……やっぱり卓真君は香奈に愛

されてるんだね」

「あ、い、いや、何かすみません」

「いいの、いいの。それじゃあ、後でいち早く卓真君に教えた理由を問い詰めてみようかなっと」

 悪戯っ子のような微笑みを浮かべながら、里奈さんはそう言葉にした。

 こうして夏休みの日帰り小旅行は大団円を迎え、静かに幕を閉じた。

 香奈ちゃんの記憶が少しながら戻ったのは、思わぬ収穫だろう。僕の心にも言葉に表せないような嬉し

さが、泉水のよう湧き上がってくる。

 兎にも角にも、今日は夏休みの思い出の一ページに残る最高の日だった。



2009年5月31日 公開




          

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